あげる

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「成長のない物語」の話

昨日のWIREDのミニカンファレンスで、「君の名は。」の話になった。

WIRED日本版の編集長若林さん曰く、「君の名は。」の主人公たちは「成長がない」らしく、だから、大嫌いなのだそうで。登壇者のJerryさんも「あんなに頑張って村を救ったような女の子がなぜつまんないOL担っているの?!アリエナイ!」だそうで。(そしてStay foolish, stay hungry.の話になる)

その視点はだいぶ目から鱗だった。

でもそうやって考えると、だからこそウケたのかな、という気もして、とりとめなく考えたのでまとめてみる。

 

あの話って、そういう視点で見てみると、
「なんとなく」日常を送っていた「ふつう」の二人が、【「運命」を変える運命】に"沿って"【全力】で頑張って「運命」を変える
っていうお話だなあと。

・頑張らなくても運命に出会って全力を尽くして"陰ながら"のヒーローになる
・そのあとそれを受けて劇的に人生が変わる訳ではなく、
 なんとなく運命の人を求めて「足りない」まま生きている
・運命的に再開する、けど、実際に接触するためにはその運命に沿って全力をかける
っていう流れで、「なんとなく」生きてる二人があの瞬間「らしくない」くらい頑張っていて、それはある種の成長と言ってあげてもいいのでは? おじさんたちの評価厳しいのでは? と思わんでもないけど、でも、あれは彼らが頑張ったからどうとかじゃなくて、そういう「運命」だったとまとめてしまえちゃうのがなんか、良くも悪くも「運命」論だなあと。

 

そしてそれをすごーくざっくりまとめると、「大切な人のためには全力で頑張れるけど、そうじゃないとこでは全力で頑張れない」っていう「イマノワカモノ」を反映している感はあるなあと。(昨日のカンファレンスでは「やりたいことがない日本人」的な話だったけど、その「日本人」と私が想定する「そうじゃないとこで全力で頑張れない」は近しい)

ざっくり世の中語っちゃうのってすごく嫌だな。でも、なんか、そういうとこ、私は少なくともあるんだな。

 

そして、これ、『美女と野獣』もそうじゃね? と思ったのでした。
昔の「美女と野獣」の野獣は、もっと愚かで、ベルのおかげで「成長」して行った感があったけど、
今回はただ心閉ざしてたのを似た者同士が寄り添うことでゆとりできましたよ、っていうだけで。それを成長というならそうなんだけど。
ちなみに、「君の名は。」も「美女と野獣」も母親を失った二人だからこそ、同じ欠落を抱えたもの同士が心を通わせやすいからこそ、あの二人であり、あのお話なんだよね。
「家族」という枠の中で失ったものがあるから、「家族」(に至る恋愛関係)でそれを埋めたくなる。そして、まずはそこを埋めて、そこが埋まったから視野を広げられて、大切にできるものが広がる。本当に大切な人ができて、その人を大切に思うならその人のためになることをするよね、それって素敵だよね。みたいな。
これは昔からある話だけど、それがウケていて美しくてって思われるのはやはりそこが欠けちゃダメだよね、っていう機運があるかならのかなあ。と。(「君の名は。」は別にこの構図にフォーカスは一切してないけど)

なお「美女と野獣」は、魔女に対して愚かな態度をとった愚か者達がスタート地点に立てただけ、っていうお話で、実際問題、この視点で考えるとマジでなんの成長もないんだなあと思った。村人達も愚かなまま終わってなんか誰かが救われるって感じがなんもないね。っていう疑いの気持ちでもう一回見たらいやいや全然成長してるやん!ってなるかもしれないからやめておこう。(ちなみに「美女と野獣」私大好きです。ただ半分くらいひたすらエマ・ワトソンの可愛さに悶えていたのでもう一度観に行きたい。)

私は「成長」って嫌いだからそれでいいんちゃうんって思うけど、
なんにせよ、「お話」ってどういう文脈でどう評価するかはあんなに人によって変わるんだな、というのがとても面白かった、というお話。

 

ちなみに、話を広げて見ると下記みたいな話になる。

有休取れなきゃやだ、ワークライフバランス!って言っている新社会人、みたいな記事を最近よく目にするし、ミニカンファレンスでも「日本人はハングリーさが足りない」みたいな話になってたけど、そういうとこ確かにあるなあ、と感じている。(と同時にすごく熱く社会貢献を語る人たちも知っているから十把一絡げに語るのはちょっとやだけど)

それが「経済成長」の成れの果てに「全員成長なんて無理なんだしもうよくない?」て流れなのか、なんなのか、っていうとこは一旦置いておいて、
「もう別に成長とかいいじゃん、手元の生活大事にしたいじゃん」
みたいな空気感は、あるのかなあと、正直思いたい自分がいる。なんでって私が若干そうだから。
世の中良くしたいなあとか貢献したいなあって気持ちはあるけど、そこに邁進できるかっていうと、その手前の「自分の幸せ」がもうちょっと、まだ欲しくて、そこに安住したい自分がいて。多分それは半分は、「それさえ保証されない」っていう脅かされている感じがあるから。その脅かされている感じっていうのは、「頑張って働いたところで大切な人がいなかったら意味ないよね」っていうのもそうだし、「働きすぎて死ぬよりはゆるく働いて世の中の素敵なものにちょっとでも触れてたい」っていう気持ちも正直あるし、「頑張ったとこでそんなに大したことできない」っていう諦めも若干、ある。(諦めきれなくてもがいてみたいから転職したり勉強しようとしてみたりはしているわけだが。)

 

ミニカンファレンスでも「ものづくりが自給自足的になった時に、個々人が本当の必要に迫られて作っているから、万人ウケを狙っている企業がそれに勝てるわけがない」って話とか「企業が"環境問題"って大ふろしきを広げても刺さらなくて、身近にある小さいところからできた物の方が刺さる」っていう話があって、それと似ているのかなと。

「身近なことじゃないと人は動けない」っていうことは今に始まった事ではないんだけど、情報が溢れれば溢れるほど、それって狭くなっているような気もしている。
「なんかいっぱいあるけど、結局自分ゴトってココだよね」っていう「ココ」が、昔は、情報が少ないだけに一足飛びに海外!とかって言えて、少ない情報から選び取ったものがソレだったから海外に行けていたのが、「いやいやだって国内にもこんなにたくさん問題あるのにそれどころじゃないっしょ」って言われたり「いやいややっぱり手元大切にしない人が外見てもね」ってなったりしている、っていうのは、あるのではなかろうか。

そして、私は幼い頃はそういう感覚が全く分からなくて、というのはきっと「大切にしたい自分」がいなかったし、何一つ「脅かされていなかった」からなんだろうなあ。

なんかそう思えるようになった自分に若干感動しつつ絶望をするわけですわ、私は。あの頃の「自分のことなんてどうでもいいじゃん!困ってる人助けたいじゃん!」ていう純粋さも取り戻したいし、ああこうやって「大人」になるんだなあとつまらない気持ちになる今からもどうにか脱出したい。まだしいたけ占いで言う所の「17歳」は持っていたいし、やっぱり社会に目を向けていられる自分でいたい。でもそんな自分でいたのほんとあの一瞬だったな。
金持ちと頭いい人が貧困問題に打って出れるのはそういう「脅かされていない」からなんだろうなあと思いつつ、そういう大枠で思考を止めるのは絶対よくないから、思考止めそうになるこの平民の立場からもっと考えてもっと動きたいなと思いました。

 

うん、収集つかなくなったし安易に拡大するのはよくないなと思ったので、そんな感じで一旦止めてみよう。そして、もうちょっと頭使ってから書かないとだなあと思いつつ、そこまでをやっているであろう評論家達に再度敬意の念を。